漂える黄色いバルーン かつて、日本GPでの125は、日本人の独壇場といっても過言ではなかったし、ワークス250で全日本選手権タイトルを争い続け、腕を磨き、死闘を繰り広げて世界に羽ばたいた原田哲也や岡田忠之、そして故加藤大治郎の活躍と比べても、その変化の大きさが判ってもらえよう。
そんな中、MFJの鈴木正利会長は、国内でモーターサイクル・スポーツの生涯スポーツ化や、レースのローコスト化を推進する一方、2005年のラグナ・セカでのUSGPの際に、ドルナのエスペレータ代表に会い、日本の若者をドルナの主宰する"MotoGP Academy"に挑戦させてもらえるよう直談判、もてぎでの日本GPの際のエキジビジョン・レースで、ドルナに日本の少年たちの技量を納得させるなど、多大な働きかけを行い、世界に通用する日本人ライダーの育成にも尽力し、この挑戦となった。
 また、これを期に、2006年の全日本選手権GP125クラスには青少年のための特別枠が設けられると言う。
MFJによる青少年育成プログラムの誕生の第1歩である。これで1位になれば、2006年11月か12月に行われる"MotoGP Academy"の選考テストに参加する資格を手に入れられると言う。もちろん選考テストは狭き門であり、2006年は2005年以上に厳しくなることが予想されており、テストを受けたからといって、誰でも"MotoGP Academy"に参加できる訳ではないが、MFJの大英断によって、漸く、MotoGPへの道筋がついたと言えよう。

2005年"MotoGP Academy"に挑戦した、その少年、中上貴晶くんには、僕の旧知の友人である本田重樹氏率いるハルク・プロで全日本を戦ってきた。重樹さんからは、故加藤大治郎選手にも匹敵する才能の持ち主だと伺っていた。
さて、テスト本番、中上少年に最初から大きな試練が待ち受けていた。初走行の中上少年を待っていたのは、第1コーナー進入時のエンジンの焼き付きであった。しかし、ここで中上少年は、実に冷静に対処し、ランオフ・エリアの砂利の上を巧みに操って転倒を免れたのである。その後の試走でも、冷静にマシンの状況を見極め、非公式ながら2番手のタイムを刻んだという。プーチ監督の「あとどれくらいタイムを詰められる?」の質問に、「1秒は大丈夫!」と答えた中上少年に、走りを見ていたプーチ監督やスタッフも納得の表情を見せたという。コース・サイドで見ていた僕にしても、往時の原田哲也を髣髴とさせる、その冷静で丁寧な走りに見惚れていたのが正直なところだ。
その詳細は、2005年暮れの東京中日スポーツ新聞の遠藤記者の記事や、2006年1月9日に放送された川端健嗣アナウンサーのフジテレビのお昼のニュースの特別枠で山本カメラマンのレポートとして扱われた。
その場に居合わせる事が出来た幸せな僕としては、今から2006年シーズンのスペイン選手権125クラスと、ちょっと気が早いかもしれないが2007年シーズンのMotoGP125クラスが楽しみである。

年甲斐も無く浮き浮きした気分で年を越し、シーズンが待ちどうしい。

坪内 髓シ
=第4回=         [ 写真を見る (※別窓で開きます) ]

ヴァレンシアで見た少年


2005年の年の瀬も押し詰まった12月14日(日本中に大寒波があったころだと思う)、僕はバルセロナのGPコミッションに出席、2006年以降のMotoGPの規則に関する会議に出席していた。
レース中などに起こった出来事で、スポーツとしての公平性の維持などの為に規則変更が必要かどうか?
世界中の国際的なスポーツ連盟が重大な関心を持っている、アスリートたちの健康を心配しての薬物問題や、発育障害を起こしかねない必要以上の過度の練習などから若い青少年を守る為に世界大会などへの参加年齢制限などの導入が必要かどうか?
限界といわれる資金が投入されているMotoGPの経済的な先行きに対する不安に対処する必要性があるかないかなどなど、MotoGPに関する種々の問題が討議、検討された。

話は少々変わるが、僕にとって2005年のMotoGPは、正直言って、考えられる最もつまらない展開ほどではなかったが、余り面白い状況でも無かった。
救いと言えば、アメリカGPでの、死に物狂いのロッシの追走だ。久々にロッシの本気の走りが見られて嬉しかった。また、もてぎやセパンでのBSを履くドゥカティの活躍や、終盤戦のメランドリの活躍は、2006年へのかすかな希望の一つかもしれないと思えた。
これらの出来事は、もしかしたら、切り返しの容易さを狙ったロッシ好みへのマシン改造が、ヤマハのマシンの本来持っていた良い点を蝕んだのかもしれない。また、今までのホンダのライダーたちが望んだ、今までのホンダ・マシンに合ったタイア開発が究極の状況に来ているのに対して、ヤマハのマシン特性に合ってきた別のタイプのタイアを、若いホンダのライダーたちと、2005年型のホンダのマシンとの組み合わせで良い結果が得られるようになったのかもしれない。今年4輪のF1で苦戦するBSだが、2輪では着実にミシュランとの差を詰めてきたのは明白だ。
そうだとすると、250のペドロサやストーナーのMotoGP挑戦も期待が持てるかもしれない。
ロッシの才能は、まだまだ先があるはずで、ライバルの出現があれば、もっともっと上に行く可能性があると思う。それを若いホンダのライダーたちや、BSユーザーが追う。より高いレベルでの激しい闘いが期待出来そうな予感がしてきた。2006年は、2005年よりは、はるかに期待の持てる年になるかもしれない。
そんな思いを胸に、ドルナの日本語サイトや将来のMotoGPを担う若いライダーの育成プログラムに関わっているバルセロナ在住の井戸さんと夕食を共にし、大いに盛り上がった。

それから4日が過ぎた18日、ヴァレンシアのリカルド・トルモ・サーキットで、MotoGPのプロモーターであるドルナが主催する、若手育成プログラム"MotoGP Academy"の選考会が行われた。
殆どの経費をドルナが持ち、明日のMotoGPスターを育てようと言う、一大プロジェクトである。既に、ペドロサやストーナー、バルベラなどを排出した超エリート育成プログラムである。普通オリンピックなどのスポーツ競技では、それぞれの国の国家プロジェクトとして、若い選手を育成するが、モーターサイクル・スポーツの世界ではなかなか実現しないのが実情だ。ドルナは一プロモーターの立場にありながら、金銭追求だけをするのではなく、実に熱心に若手の育成に努めている。儲かっているから出来るというのは容易いが、なかなか出来るものではない。

世界標準時の基点となるグリニッジとほぼ同じ経度にありながら、ヨーロッパ大陸諸国と同じ1時間の時差を持つ時間帯を採用し、盛岡と同じ緯度のヴァレンシアでの午前8時は、漸く明け始めたばかりで、吐く息は真っ白、寒波の日本同様、非常に寒い朝だった。
世界8カ国から集まった12歳から17歳までの22人の挑戦者の多くは、15歳以下の少年だ。しかし、それぞれの国では、ジュニア・チャンピオンや国内選手権での優勝経験を持つなど、将来を嘱望されている若者たちなのだという。
しかし、親やチーム関係者などが付き添い、参加手続きや選考会での要領の説明が行われる会場の雰囲気は、まるで、お受験そのものであった。
その中に、MFJの特別推薦を得て参加した、一人の日本人の少年がいた。
もてぎでの日本GPで、GPモノによるエキジビジョン・レースでブッ千切りの優勝を飾り、全日本選手権GP125クラスで新人賞を獲得しての推薦と聞く。MFJの大英断だ。

全日本選手権でのワークス参加が事実上禁止され、世界に通用するライダー育成の手段を失ったモーターサイクル・メーカーだったが、HRCの金澤社長が英断の口火を切った。2004年の青山博一のMotoGP250クラスへの奨学参戦である。そして2005年の高橋裕紀へと続く。しかし、プライヴェーター同士の戦いには限度があり、突如世界選手権に参戦しても苦労は並大抵ではなかった。漸く青山はKTMワークスの座を独力で勝ち取ったが、この環境の中、立派というしかない。高橋や2006年の青山周平にも、同じように大変な世界が待ち受けている。
=第4回・完=
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